AsahiKASEI

Recruitment 2018

旭化成のDNA Our DNA

“いのち”と“くらし”への想いが生む、
時代のニーズに応える、挑戦と創造

旭化成は、創業から常に変化し、多角化を続けてきました。
それが、激動の環境変化を乗り越え、揺るぎない基盤を築き、
旭化成が発展することができた一つの理由です。

では、そこではどんな想いが受け継がれ、これからどんな方向に進んでいくのか。
その解となる今も旭化成に息づくDNAを、
事業の変遷とともに紐解いていきます。

1922年

旭化成の始まりと、DNAの源流

1922年、旭化成の創業者野口遵が宮崎県延岡で設立した日本窒素肥料(現チッソ)はヨーロッパのアンモニア合成法を導入して日本初となるアンモニア合成に挑みました。アンモニアと硫酸を反応させて生産する硫酸アンモニアは当時貴重な肥料であり、それが外国からの輸入に頼っていた日本の農業を大きく変えることになります。野口の目標は、食料の生産性を高め、農家を楽にして、社会を豊かにすること。そのために、「世界一の化学工場を自分たちの力で造る」という高い壁に挑んだのです。

崇高な目標を掲げたものの、世界で初めてとなる、高圧でアンモニアを合成する大工場の立ち上げには、危険と困難を伴いました。それでも、技術の確立に挑んだ若いエンジニアたちは、事故が起これば命を失うことを覚悟しながら、建設を進めプラントを完成させます。

また、旭化成のもう一つの祖業である化学繊維事業もこのころに始まります。

当時の日本人の多くが着ていた着物に使われていた、絹の特徴を持った人工繊維を安く人びとに提供するため、レーヨンの製造技術をドイツから導入し、琵琶湖湖畔に大工場を設立。さらに、再生繊維ベンベルグの技術を導入し、レーヨンに続いて生産を開始。その工場は世界最大の生産能力を誇りました。

このように、野口たちは、社会に役立つものづくりを広い視野で考え、さまざまな技術や特許を海外から導入し、自分たちの手で生産技術を確立しながら、化学肥料や繊維の事業化を進めていきます。

時代が求めるニーズに応える製品を作るためには、どんなことにも挑戦する、という野口遵や当時のエンジニアたちが持つ事業精神は、現在の旭化成にも脈々と息づいていきます。

創業当時の写真:旭絹織物
カザレー博士と若手エンジニアたちの写真

1950年

常に新領域を開拓していく集団

第二次世界大戦が終結。繊維や化学肥料の事業は戦後にも引き継がれ、化学メーカーである旭化成工業が誕生。ここから40年間、旭化成は目覚ましい発展を遂げました。

終戦直後の混乱が落ち着いたころ、旭化成は先を見据えた活動を始めます。アクリル繊維などの新しい合成繊維の開発や、外部企業との技術提携を通じ、新規分野に踏み出したのです。

1960年代初頭に、旭化成は目指すべき企業ビジョンを打ち出します。それは「衣・食・住の総合化学メーカー」というものでした。

「これからの世の中が求めているものは何か?」この命題に若手からベテランまで年代を問わず、社員同士が何度も熱く議論を重ねました。その結論は社内で三種の新規と呼ばれた、「ナイロン繊維」「合成ゴム」「新建材」という新しい事業分野への挑戦でした。

そのための大胆な投資は、当時の旭化成にとって時期尚早という意見もありましたが、既存事業が健全な今こそ新規事業に挑戦するべきという判断のもと展開されていきました。

パンティストッキングの一部に使われる
ナイロン繊維
自動車のタイヤに使われる合成ゴム
家づくりに欠かせない新建材

1950年の売上高

1950年の事業比率

1965年~1980年

「挑戦」を「価値」に変えていく強さ

1960年代には化学品の生産が始まり、新たに手がけたナイロンやアクリル繊維の売上が伸びていきました。

1970年には、水島エチレンセンターが稼働します。これは7年の歳月をかけて構想され、その投資額は当時の年間売上高に匹敵しました。社会の発展を見通して行ったこの勇気ある挑戦は、旭化成に急速な成長をもたらします。それは、それまでの繊維会社から、石油化学工業をベースに多彩な製品を作り出す、総合化学メーカーへの転身でした。

1970年代から80年代にかけては、社会のニーズを読み解き、住宅、医薬品・医療機器、LSIといった未経験の分野に次々に踏み出していきます。

当時、住宅やLSIの事業には、多くの企業が参入しましたが、双方を事業の大きな柱に成長させることができたのは、旭化成だけです。80年代の旭化成は、社会のさまざまな分野の発展に貢献する、最も多角化に成功した企業と言われるまでになりました。

水島エチレンセンター
住宅事業
医薬事業
LSI事業

1965〜1980年の売上高

1965

1980

1965年 1980年

1965〜1980年の事業比率

1965

1980

1965年 1980年

1995年~2015年

自らを変革していく力

旭化成グループは、1990年には連結売上高で日本の化学会社のトップとなります。しかし、その後の日本経済のバブル崩壊と景気の長期低迷は、旭化成の多角化路線にも見直しをせまりました。

競争力のある事業は強化し、収益基盤の弱い事業からは撤退するという明確なビジョンのもと、「選択と集中」をテーマに、思い切った事業の再構築が進められたのです。

一方この時期には、80年代に着手したエレクトロニクスやバイオテクノロジー、膜技術など、新しい社会の到来を加速させる付加価値の高い独自の製品開発が花開き、旭化成の重要な柱として新たな成長を支えることになります。

競争優位の事業では、積極的な海外進出も展開。欧米やASEAN、中国への進出や、提携・買収などを通じて生産と供給の拠点を着々と整備し、事業基盤を拡大していきました。

2008年のリーマン・ショックに始まった世界的な経済危機のなかでも、旭化成は世界の化学会社のなかで、最も安定した会社のひとつとして評価されました。

社会の状況を先読みし、次の時代に向けて自らを変革しながら、新しい社会価値と高い競争力を実現している旭化成グループは、絶えず大きな発展と成長と追求し続けています。

回転角度センサー
膜技術を医療に応用した人工腎臓
海外拠点写真(タイ アクリロニトリル工場)

1995〜2015年の売上高

1995

2015

1995年 2015年

1995〜2015年の事業比率

1995

2015

1995年 2015年

1人の挑戦は
30,000人の挑戦につながっている

野口遵という1人の実業家の理想への挑戦は、
ステージを拡げて成長する旭化成グループの大きな流れを作りました。

それから一世紀にわたり、旭化成の挑戦は
「衣」を整える人絹製造を手始めに多彩な繊維事業へ、
人びとの「食」を豊かにする肥料づくりを端緒に化学事業へ、
安心の「住」を届けるために住宅・建材事業へ、
そして、人びとの「いのち」を救う医薬・医療事業に進出、
さらには現代社会の基盤となるエレクトロニクス事業へ・・

「世界の人びとの“いのち”と“くらし”に貢献します。」という企業理念は、
まさに旭化成グループの未来への指針そのものです。

私たちが守り、未来に伝えていくのは、
これまでの歴史の中で脈々と受け継がれてきた、
絶えず機会を求めて「挑戦」し、事業を創造していく「精神」と、
人類の幸福と社会の 発展に貢献していく「誠実」な姿勢です。

このDNAが、旭化成30, 000人の社員の中に息づいています。
そして、一人ひとりの挑戦を結集して今までになかった旭化成が生まれ、
世界にまた、新たな価値を提供していくのです。

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